Masuk駅近、格安、空室あり。 宵鳴アパートには、入居者だけに聞こえる音がある。 拍手、足音、呼び声、泣き声――その音を聞いた者は、忘れたはずの後悔と、叶わなかった願いに引き戻される。 第一章「カーテンコールは終わらない」。俳優の夢を諦めた未琴は、午前二時、空室の隣から拍手を聞く。
Lihat lebih banyakぱち、ぱち、ぱち。
乾いた音で、
最初は、それが何の音なのかわからなかった。
古い冷蔵庫の唸り。
壁の内側を水が流れるような配管の音。 上の階で、誰かが寝返りを打ったような床鳴り。この部屋では、夜になるといろいろな音がした。
都心から離れた、駅徒歩五分の古いアパート。
駅から近いのにひどく家賃が安いのは、それなりの築年数だから。 当然、隣室との壁も薄い。 しかし、いまの未琴にとって、安いことが何よりも重要だった。だから、夜中に少しくらい物音がしても仕方がない。
ぱち、ぱち、ぱち。
また聞こえる。
しばらくして気づいた。それは、拍手だった。
未琴は布団の中で目を開けたまま、ぼんやりとその音を聞く。
枕元に置いた携帯を手探りで取る。画面の明かりが、暗い部屋に小さく浮かんだ。
午前二時十七分。
「……何」
声に出したつもりだったが、喉が乾いていて、ほとんど息にしかならなかった。
拍手は、隣の部屋から聞こえてくる。
二〇七号室。
未琴の部屋は二〇六号室で、その隣にある角部屋だ。
引っ越しの挨拶はしていない。 いまどき単身者用のアパートで挨拶回りをするほうが珍しいだろうし、何より、未琴にはそんな気力がなかった。ぱち、ぱち、ぱち。
拍手はゆっくりだった。
一人だ。
誰かが、隣で、ひとりきりで手を叩いている。
テレビだろうか。
動画だろうか。 何を見て拍手なんてしているのだろうか。そう考えた瞬間、未琴の胸の奥が、嫌な形で縮んだ。
拍手は嫌いだった。
いや、嫌いになったのだと思う。
昔はそうじゃなかった。
◇◇◇
子どものころ、町内の祭りで小さな舞台に立ったことがある。
浴衣を着せられ、練習した台詞をたどたどしく言っただけだった。 演目の名前も、どんな役だったのかも、もうはっきりとは覚えていない。けれど、終わったあとに聞こえた拍手だけは覚えている。
夕方の茜色の空。
吊るされた提灯。 焼きそばの匂い。 舞台の下の観客が笑って拍手をしながら「上手だね」と言ってくれた。そして、嬉しそうな祖母の顔。
祖母は両手が痛いと言いながら、いちばん大きく手を叩いてくれた。
「あんたは舞台映えする子やね」
その一言が、未琴の人生を随分長く支えていた。
祖母に勧められて子ども劇団に入った。
中学も高校も、演劇部が有名な私立を選んだ。 主役をもらうことも多かった。 舞台袖で照明の熱を頬に感じながら、自分の出番を待つ時間が好きだった。幕が下りたあとの拍手を浴びるたびに、自分にはこの道しかないと思った。
東京の劇団のオーディションに受かったとき、自分の人生には輝かしい未来が待っていると信じていた。
けれど、実際に始まったのは、長い待機の時間だった。
劇団員といっても、ほとんどは練習生。
スクール費用を払い、レッスンを受け、時折公演に端役として出る。 名前のある役や台詞の多い役には、外から呼ばれた有名な俳優が入った。稽古場の鏡の前で何度も何度も台詞を繰り返した。
アルバイトを掛け持ちして、家賃と月謝を払った。地方公演は、東京にいるより良い役がもらえる貴重な機会だった。
しかし、受ければアルバイトを長く休まなければならない。戻ったときに同じシフトがある保証はない。
それでも、いつかはと思っていた。
いつかは。
いつかは、自分にもライトが当たる。
その「いつか」を待っているうちに、未琴は二十九歳になっていた。
そして、恋人とも別れた。
三年前のことだ。
「おかえり、未琴」帰宅すると、俊也が優しく肩からバッグを下ろしてくれる。「ただいま!今日はね、何もかもがすごく上手くいったわ」そう抱きついて俊也に告げると、そっと頬にキスが返ってきた。「そうだと思った。すごくご機嫌だからね」「んふふふ」「そんな未琴に、素敵なお客さんが来てるよ」俊也がそっと顔を覗き込んで嬉しそうに言う。「お客さん? 誰?」奥のダイニングの椅子に誰かがいる気配がある。俊也に手を取られてそっちに向かう。「おばあちゃん!」ダイニングの椅子に座っていたのは、役者になる夢を最初から応援してくれていた未琴の祖母だった。「未琴。お仕事お疲れさま。久しぶりね」思わず座っている祖母にかけより、強く抱きしめた。「あらあらあら。さすが、演技派さんは再会の挨拶もドラマチックねぇ」優しい声で祖母が背中をポンポンと叩く。背後で、ぱちぱちぱちぱち、という小さな拍手とともにすすり泣きが聞こえる。「おばあちゃん。会いたかったの」「私も未琴に会いたかったよ。すごくがんばってるんだねぇ」小さい頃にしてくれたように、祖母が優しく頭を撫でてくれる。「おばあちゃん、ありがとう。ずっと、応援しててくれてありがとう」この言葉を祖母にずっと伝えたかった。自分のやることを何一つ否定せず『大丈夫、未琴ならできるよ』『すごいね、未琴は天才だね』といつだって温かい言葉を与え続けてくれた、唯一の人。「あたりまえだよ。私は未琴のファン1号だからね」そう言って白髪交じりの眉が優しく下がる。その顔を見ていると、思わず涙が溢れた。「おばあちゃん。大好き!」未琴は、涙を流しながら子どものように祖母にすがりついて叫んだ。「よしよし。いくつになっても、やっぱり可愛い未琴ちゃんだね」そう言って頭を撫でてくれる優しい手に、少しも涙がおさまらなかった。未琴は、割れんばかりの拍手と、涙混じりの「素晴らしい!」「なんて感動的なの」という呟き声に包まれ、満足感で胸を一杯にして祖母を抱きしめ続けた。祖母との再会で気持ちが浮き立っている。ずっと言えなかった「ありがとう」を伝えることができた。なんて幸せなんだろう。なんだか、ずっと心の重しになっていた何かが、スポンと外れて体の中を綺麗な空気が淀みなく流れていっているようだった。職場に着くと、いつものように自分の席でPCを
「ね、何あれ。どうしたの?」ちょうど11時を回った頃、給湯室に女子社員が数名集まっていた。「何、あのばっちりメイク。どうしたいわけ?」ちょうど、未琴がそこを通りかかった時に、そんな会話が聞こえて来た。「でもさ、昨日までは電話のメモ取るのもやっとって感じだったのに、やたらよく通る声で対応してるし。マジで何があったんだってレベル」確かに今朝は、すっきりした頭で仕事も冷静に片づけられている。自分の陰口を言っているのはわかっているが、むしろその妬みが誉め言葉のように耳に響いて思わず口元が弓なりになってしまう。盛り上がっている彼女たちに、もう少し見せ場を作ってあげたくなった。さも偶然通りかかったように、ゆっくりと給湯室の入り口を横切り、一番端にいる女性と目を合わせる。相手が目を見開いてはっとした表情を浮かべた後、他の2人に気まずそうに目線をやった。「お疲れさまです」ことさらに明るい声で、笑みを浮かべて彼女たちに挨拶をする。ぺこりと軽く頭を下げた後、何食わぬ顔でそこを通り過ぎた。「ちょっと――」しばらくの沈黙のあと、さらに給湯室は盛り上がっているようだ。好きに言わせておけばいい。その方がこの先の展開が面白くなるだろうし。後ろ手を組んで軽い足取りで、自分のデスクへと戻ることにした。その足取りに合わせるように、称えるように、ぱちぱちぱちぱち、とどこかから拍手が聞こえた。「聞いたよ。今日は、若手に見せ場を作ってあげたって?」部屋に帰ると、俊也がお帰りと迎えてくれる。「未琴のアドリブは、いつだっていい展開作るよね」「そんな大したことしてないけどね」ふふっと照れ笑いをする。「自然体でそういうことができるのが、未琴の才能なんだろうな」「才能だなんて大袈裟な」そう言って彼の手をトントンと叩くと、「謙虚な大御所だなぁ」と返ってくる。どこかから、笑い声とともに、ぱちぱちぱち、と拍手が聞こえる。なんて幸せで充実した毎日だろう。◇◇◇「相沢さん。最近、仕事をがんばってくれているのはわかるんだけど……無理していないかしら」指導係の先輩が、キーボードに向かう未琴に声をかけた。仕事に邁進する新入社員。少し頑張りすぎるくらいが、同期の中で目立つというものだ。「あなた、もともとすごく華奢ではあったけど……その、おせっかいなようだけど、凄く痩
どのくらいぼんやりと座り込んでいたのだろうか。真っ暗な部屋に響くインターホンの音に、はっと我に返る。電気もつけず静かに玄関まで進み、そっと覗き窓に目を当てる。扉の向こうには、思いもかけない人物が立っていた。「しゅん……や?」魚眼レンズのように歪んだガラスの向こうに、別れたはずの俊也が立っていた。――どうして?驚いてすぐに扉を開ける。「なんで……いるの?」その言葉に、俊也は一瞬目を丸くしたあと、ふっと笑った。「そりゃ、なんでって。未琴の家は俺の家だからね」「え?」驚く私を背の高い彼が、脇を抱えてヒョイと抱き上げた。「未琴。どうしたの? 新しい仕事で何か嫌なことでもあった?」心配そうに顔を覗き込むその表情は、昔と変わらない。「どうした、どうした? また、監督に無茶ぶりでもされたの?」「監督って……?」「今日から新しい舞台の打ち合わせだっただろ?」「新しい舞台?」未琴は呆けたように、俊也の言うことをただただ繰り返す。そんな未琴を、俊也は困った顔で笑いながら見下ろしていた「相当お疲れだね。よーし、ここは、最古参のファンとして、未琴を癒すことに専念しよう」ソファに下ろされると、俊也は未琴の足を太ももの上に載せ、優しく揉み始めた。「痛かったら言って。女優の足に痣を作ったなんてことになったら、大変だから」そうだ、いつだって俊也は、稽古を終えて帰ると、痛む足や腰を揉んでくれた。こんな風に。「俊也。いつもありがとう」その言葉に、俊也がぷっと吹き出す。「なんだよ。随分、殊勝だな。いつもなら、“ファン冥利に尽きるでしょ?”とか生意気言うくせに」「そんな……私、こんなことして貰えるような立場じゃないのに。ごめんね」いつだって後悔しない日は無かった。どうして彼について行かなかったのか、何にしがみついていいたのか。「おいおい。泣いてんのか?そんなに今日は辛かったのか?」「どうして……こんなに優しくしてくれるの?」ふくらはぎを優しく揉む手が止まる。そして、その手が未琴の頬を優しく撫でた。「俺は、未琴にいつだって優しくしていたいんだよ。だから泣かないで」未琴は、頬に触れる手の上に自分の手を重ねた。「なんだか、長い間、すごく嫌な夢を見ていたみたい」そう微笑みかけると、俊也も笑みを反し、再び心地よい強さでふくらはぎを揉み始めた
午前中、何度も入力を間違えた。昼前には、教育係の女性が隣の席の人に小声で何かを言っているのが聞こえた。「ちょっと厳しいわ。さすがの私もーー」ため息混じりのその言葉が、胸に突き刺さる。昼休み、未琴は会社の外へ出た。コンビニで買ったサンドイッチを袋に入れたまま、近くの公園のベンチに座る。食欲はなかった。携帯を取り出し、管理会社の番号を検索した。苦情を言わなければならない。もう限界だ。けれど、電話で説明できる気がしなかった。隣室から毎晩拍手が聞こえます。録音したら拍手は入っていません。録音には何か怪しい声が入っていました。朝起きたら、部屋が楽屋のようになっていました。そんなことを言えば、こちらがおかしいと思われる。未琴は、携帯を握ったまま、じっとその画面を見つめていた。その日、定時になるとすぐ会社を出て、アパートを管理している不動産会社へ寄った。ガラス扉の向こうに、物件情報の紙が何枚も貼られている。あの部屋は、通りがかったこの貼り紙の中から見つけたものだ。カウンターには、内見のときに対応してくれた男性とは別の、四十代くらいの女性が座っていた。「すみません。宵鳴アパートの二〇六号室に入居した相沢なんですが.......」「ああ、はい。どうされました?」女性はにこやかに腰を上げた。「隣の部屋のことで、少し」「ちょっとお待ちくださいねー」と言いながら、女性はパソコンのキーボードを叩く。「お隣というと......二〇七号室ですか?」「はい。夜中に音がするんです。拍手みたいな音が。毎晩、すごく遅い時間に」口に出した瞬間、自分でも奇妙な話だと思った。女性の笑顔が、ほんの少し固まった。「拍手、ですか」「はい。ここ数日は、かなり音が大きくて」「テレビとかではなく?」「たぶん。で、お隣は、郵便受けが塞がれてて、苦情の手紙を入れることもできなくて」女性は手元のパソコンに目を落とした。何かを確認しているようだった。未琴は胸の前で鞄を抱えた。「あの、隣の方に注意していただけますか? 私も仕事が始まったばかりで、眠れないのは困るので」女性は、すぐには答えなかった。パソコンの画面を見つめたまま、唇を一度引き結ぶ。それから、ゆっくり未琴を見た。「相沢さん」「はい」「二〇七号室は、ずっと|空室《くうしつ